鉄剣

鉄剣について書きます。私が住む行田には、アド街っく天国で紹介された、鉄剣タローという自販機のオートパーラーがあります。

が、それぢゃ無くて本物の鉄剣の話ですw
既におわかりだと思いますが、1968年(昭和43年)に、さきたま古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣のことです。

先日、さきたま史跡の博物館にいってきました。駐車場を出て博物館を目指し県道を渡るとすぐ右手に埴輪の館があります。ここで実際に埴輪を作ることができるようです。

そして資料館近くに埼玉県名発祥の地の碑があります。そーです、ここ行田が埼玉県名の発祥地なのですw

知らない方もいらっしゃると思いますが、この鉄剣、金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)といって、いくつかある埼玉県の国宝の中でも、圧倒的な存在感があります。

発掘された後、10年間は単なる錆びた鉄剣のひとつとして、倉庫の片隅に保管されていました。
1978年(昭和53年)に調査・保存のための予算がつき、奈良県立橿原(かしはら)考古学研究所にて、錆の進む鉄剣の保護作業をしたところ、文字の存在に作業員が気付き、レントゲン撮影の結果、金文字が見つかり大騒ぎになりました。この金文字は、日本最古の漢字であるとされ、日本史実上20世紀最大の発見と言われました。

今では窒素ガスが充填たされたガラスケースに収納され、さきたま史跡の博物館で保存・展示されています。

ぱっと見、鉄剣が宙に浮いているように見えるディスプレーです。なかなか良くできてますw

この鉄剣は、その剣身に書かれ文字から、辛亥の年、七月(西暦471年7月)に作られたものであることが解ります。
さてさて、それではお待ちかねの、書かれている文字に取り掛かりますw

表には、てか、どっちが表だってツッコミたくなりますが、書かれいる内容で決めたみたいですw

亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比

裏には、其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也

現代調に訳すと表には【辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。】

裏には【其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。】

もっと現代調にざっくり言うと、辛亥の年七月(西暦471年7月)これを記します。私はヲワケの臣です。と自分の名前を述べたあと、自分のルーツを連ね、代々杖刀人(親衛隊)の首(隊長)となり、奉事して今に至ります。ワカタケル大王(雄略天皇)に仕え、天下を治めるのを補佐しました。
そこでこの百練の利刀(鍛えぬかれた素晴らしい刀)を作り、私の奉事の根源を記録します…と、こんな感じでしょーかw

この鉄剣に書かれた、115文字という文字数は、日本のみならず他のアジア地域の例と比較しても多いそうです。そしてこの文字がその後の日本古代史の基準点となり、その他の歴史事実の実年代を定める上で大きく役立つことになっているんだそうです…

中には、もともと稲荷山古墳に埋蔵されていたものではなく、誰かが持ち込んだものであるとか、時代背景がおかしいとか、埼玉みたいな僻地に天皇の親衛隊長がいるなんてありえないとか、異論をとなえている方もいらっしゃるようですが、私的にはそんなことどーでもイイって感じですw
稲荷山古墳を発掘調査した結果、発見された事実は曲げられないですから。

今夜はヲワケの臣の生きた時代に思いを馳せ、日本酒でもいきたい気分ですwww

追伸、さきたま史跡の博物館には、鉄剣以外にも、さきたま古墳群から発掘された埴輪や青銅鏡、まがたまやその他諸々が展示されています。国宝が何点もあるのにはびっくりしました。入館料も200円とリーズナブルです。機会がありましたら是非、見学にお越しください。

灰鰤で投稿HatenaSync