田舎教師

 隣町の羽生に行くと、あちこちで”田舎教師”のPRを目にするので以前から気になっていたんですが、やっとのことw田山花袋さんの田舎教師を読んでみました。ま、ま、それを記念しw更新しますね。

灰鰤のアプリ、青空子猫っていうビュアーを使って、青空文庫からダウンロードした本を読みます。

田舎教師というと、それこそ、すぐに羽生が思い浮かびますが、行田の地も縁深いところなんですね。

 小説は「四里の道は長かった。その間に青縞の市の立つ羽生の町があった」。主人公の林清三が、実家のある行田から弥勒の高等小学校教員として赴任して行く情景から「田舎教師」は書き出されます。貧しく進学することもできず、小学校教師として苦悩の日々を送り、二十歳の若さで死んで行く林清三…
若者が大志を抱いていた、そんな明治時代の話です。

 この物語には、実在のモデルがいました。明治32年、父と共に熊谷から行田に夜逃げしてきた小林秀三さんです。彼は行田から三里の道を歩いて埼玉県第二中学校(現熊谷高等学校)に通学し、苦学のすえ卒業する。そして羽生在の小学校の代用教員となったが、日露戦争の戦勝に日本中が大騒ぎをしている中を、21歳の若さで肺結核のため、羽生の建福寺でひとりさびしく病死しました。そんな青年の生涯をモデルに、行田・羽生を舞台にした小説です。

 羽生駅近くの建福寺を訪ねていた田山花袋が、偶然、新しい墓石をみて、小林秀三さんの事を知り、「さびしく死んで行く青年もあるのだ」と感じ、そんな青年のことを調べてみようと思った、と自身の「田舎教師について」で綴っています。それが執筆の動機だったようです。それから後、数回にわたって行田を訪ね、行田・熊谷・羽生の実地調査をしています。

 小林秀三さんの住まいは、「家は行田町の大通から、昔の城址の方に行く処にあった。角に柳の湯という湯屋があって、それと対して綺麗な女中のいる料理屋の入口が見える」とあります、今も残る「柳の湯(すでに営業はしていませんが…)」と「料理屋魚七(現在はコンビニに変わってます)」からして、その角を南へ曲がったあたりだったようです。

 魚七がまだ商売をしている頃には、よく鰻を食べに行きました♪確かにその頃も、可愛い店員さんが働いてました(ハァハァw
残念なことに、今では足袋の生産に沸き返っていた当時の料亭や旅館は、そのほとんどが店をたたんでしまいました…(淋)

 小林秀三さんが通った弥勒高等小学校は、利根川に近い弥勒にありました。いまは東北自動車道が走り、近くには羽生インターと羽生水郷公園などがあります。ま、ま、今でも明治の頃と変わらず田舎って感じのところですw元々湿地帯で沼が多い場所で、現在でも近くにバスポンド(ブラックバスが釣れる沼)があり、私的によく釣に出かけます。

行田の水城公園内にも田山花袋の碑があるのを思いだし、ちょっと行ってきましたので紹介しておきます。
碑には「絶望と悲哀と寂寞とに 堪へ得られるやうな まことなる生活を送れ 運命に従ふものを勇者といふ」とあります。小説にも登場する、小林秀三さんの日記に記されていた言葉です。
昭和36年に建てられたこの石碑の裏側には、記念碑建立の言葉が書かれていました。「作中に美しく描写されている自然も料亭魚七も柳の湯も行田文学の印刷所もそのままに残っている…」とあります。
今現在残っている、柳の湯だけでも保存したいですよね…

 「田舎教師」は自然主義文学の代表作といわれています。自然主義は人生をありのままに描くことに徹すること。人も物も風俗も忠実に再現される。そうした真実が、現代においても、心に残り、多くの人々の心を打ち続けています。
灰鰤で投稿
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